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めんどうがりこけしのぶろぐ

映画「シークレット・オブ・モンスター」感想(ネタバレ)

原題“The Childhood of a Leader”(2015)

 

■あらすじ

第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約締結のためフランスに派遣された米国務次官補とその家族がパリ郊外に居を構える。一人息子のプレスコットは常に何かに苛々していて、癇癪をおこしては周りを困惑させる。

 

■ネタバレ感想

プレスコットの美少年パワー

・映像と音楽の美しさ

・白と黒の対比

・ミステリなのかと言われるとわからない

 

非実在少年愛好家としてはもう、ネット上で情報解禁してから期待がたかまるばかりでしたが、静止画もいいけど動いて喋るのもたまらなくいいです。自然光のような色合いとパリ郊外のお屋敷(修理するか悩んでいて少しぼろい)や景色が絵画みたいで、どのシーンのどこをとっても絵になるんじゃないかなってくらい良いです。そしてその背景にとけこむ少年!あどけなさと不遜な態度、生意気そうな顔、とくに横顔!たまらなくツンとしてていい!いいよ!

 

主人公はプレスコット少年ですが、彼が何をおもって行動しているのかいまいち測りかねるので感情移入する事はできませんでした。彼に突き放されたような感覚に近くて、遠くから俯瞰している気持ちでみました。原題のタイトルと原案からわかるように「一指導者の幼年時代」です。これで時代背景をかんがえれば答えがわかると思います。この点でミステリのようでミステリといっていいのかどうか、という気がしています。残念ながら公式サイトは閉鎖していて見られないのですが、監督本人によるネタバレ(解説)があったようです。遅すぎて読めなかった〜!!!DVD、Blu-rayも廃盤でどうしようもない〜〜!!悲しい!

 

プレスコット少年がいかにして独裁者になったか、というとこの映画だけではわかりません。予兆がみられますが、あくまでも幼年期のみでその後は突然独裁者になってから登場します。その時も少ししか喋りません。少年が体験したことは、どこの誰にでも起きうる問題もあるし、生きてる人それぞれに皆なにかしらの事柄を抱えてると思うので、彼が特殊というより時代背景が大きい気がします。そしてこの映画が作られた2015年前後の世界情勢も関係していると思います。全体主義、排外主義がはびこっているそんな時にそれの最たる「ナチスドイツ」的な国と「ネオナチ」的風貌のリーダーであるプレスコットです。過去と現在が入り混じったような、そして不安にさせる映画です。

 

■個人的に気になった所

プレスコット少年は賢いので、詳しいことはわからなくても物事の本質をわかっている節があります。母親は敬虔なクリスチャンです。でも不倫をしています。父親は多忙で不在がちです。プレスコット少年の家庭教師と不倫をしています。それをプレスコットはわかってる。「ぼくのこと好き?」などとプレスコットは大人に質問しますが、みんなちゃんと答えてくれてません。ぜんぜん答えになってない違うことを言ったりはぐらかしたりします。ちゃんと子供が聞いたことに答えておくれよ!!目をみて答えて!!そしてプレスコットの心の拠り所である屋敷付きの老女を、母親は怒りに任せて解雇してしまいます。これもまずかった。解雇したあと、プレスコットはフランス語の絵本「ライオンとねずみ」を母親と家庭教師のまえで朗読します。「親切は返ってくる(小さな存在でも大きなものを助ける力がある)」といった教訓を母親に訴えている(若しくは自分が彼女を助けたいのか)んですが母親は「上手ね」って言うだけで響いてません。相互不理解!!!終了!だれも本当の自分のことをわかってくれない!うそつき!信じられない!神様なんていないんだ!だからお祈りなんてしないんだ!バーーン!

 

■父親

お屋敷は妻の姉からゆずってもらったらしく、その家族にイスラム教徒がいるそうで、屋敷内のあちこちに中東の調度品があります。それをこの国務次官補の父親は「こんな下品なものくだらん」みたいに言うわけです。そういう排他的な言動は日常に現れるので、多忙で家にいないことが多いとはいえプレスコットに与えた影響は大きいはずだ。

 

■母親と家庭教師

母親は四カ国語をしゃべると事あるごとに言っています。婚前は家族で世界中を旅行していたそうで夢は教師だったようです。夫の執念深い求婚に折れて結婚したようですが、結婚生活も不満だし夢にも未練があります。夫の不倫相手である家庭教師の若い女性に結婚もしちゃだめ子供も産むな、夢を叶えろといって多目に(たぶん)さいごのお給料を渡して別れます。女性が今よりも自由に職業や生き方を選択できない時代であった事もあるとはいえ色々世知辛いです。2019年のいまだって生きづらいのにね。

 

実存主義

サルトルの小説が原案ならば実存主義が関係してるんだろうと思うんですが、こけしは詳しくありません。そこで三省堂の「哲学大図鑑」のサルトルのページ(p268)を読みました。

“私たちの実存は私たちの本質に先立つ”

まず、神はいない。私たちは神につくられたのではない。私たちは何かの目的のために創られたわけではない。目的よりも存在することの方が先である。私たちは自ら存在する理由を創造しなければならない。

自分を定義するということは、周りから示されて(例えば教会とか神とか親とか)かたちづくることではなく、自分の意思で自由にみずからのあり方を選択し生きていくこと。大衆に流されることなく常にどうするべきか問い続け、なにを選び行動するか己に問い続けること。

“私たちは「自由であるという刑に処されている」”

選択をすることは、その先を予想していてその選択が意義のあるものであると自分が考えていることになる。自由に選択するということは自分だけでなく他の人にも影響を与え、それは責任を伴うことになる。以上要約(こけしなりの解釈)です。

 

■さいごに

プレスコットは自分が何者であるかをはじめは周りに定義してもらおうとしていた。(女の子に見える風貌をして、でも本当は男の子なんだと気づいて欲しがった)次第に周囲の大人が必ずしも正しいわけでも神がいるわけでもなく自らを定義するのは自分で、自由意志で学び思考することを選ぶ。そしてその行き着く先は独裁者だった。プレスコットのカリスマ性に流されてしまった大衆は思考することをやめて自由であることを諦めたのかもしれない。プレスコットがさいご、車を降りる時少女がうつる。少女は不安そうな顔で所在なさげで皆とちがう方を向いている。彼女は自分の意思で自由な思考で大衆とちがう何かに気づいたのかもしれません。長い!以上です!